文月悠光 『わたしたちの猫』
耳のはばたき
その耳が蝶であることを
君は知らない。
声を求めて今にも舞い立っていく、
ひとひらの
見つめていると、君の耳は
ひっそりとはばたきはじめる。
その耳穴に吸い込まれて
わたしは音そのものになるだろう。
音のわたしは、いつでも君の肩のうえ。
鳥のさえずりだとか
因数分解の解き方だとか
絶えず耳打ちしなくてはいけない。
風を受けて、耳はらせん状になだらかな渦をまいた。そのらせんを一音ずつ下りていけたら、君のなかへ忍び入れたなら――。
君の耳の奥地には、一台のオルガンが据え置かれている。つややかな蓋を弾むように上げ、その手を鍵盤に躍らせた。響きたい。君のいる場所に、君自身に、鳴り響いていきたい。踏み抜いたペダルによって響きが永遠になるように、君を知らないわたしには戻れない。大きなからだに備わった、ひとかけらの鼓膜を揺り起こす。そうして君を振り返らせる。
ねえ、誰の声に飛んでいくの。
わたしを感じて震える翅よ。
久々に見かけた君は
新しいイヤホンに耳をあずけていた。
ピンに刺しつらぬかれて
蝶はかたくなにうつむいている。
かつてわたしが奏でた、
溶けていく雪、
雲間を渡りゆく光、
くびすじを這う汗の粒たち――
それら皆通り抜けて
蝶は眠っているのだろうか。
起こしてしまわぬよう、今はただ
きれいな声であいさつがしたい。
君はわらって
そのからだごと、わたしを忘れる。
澄ましても、耳。
「耳のはばたき」 文月悠光