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文月悠光 『わたしたちの猫』

   片袖の魚

 

 

 

あなたが誰かのものになっていく。
その過程がわたしにはよく見えるだろう。
両袖ならば触れ合えたのに、
わたしは片袖にのみ火を放った。
片袖に生まれたこの赤い魚が
あなたへ燃え渡りますように。
誰かのものになる間もなく、
わたしたち、灰になるのだ。

 

その燃え立つ尾ひれに惹かれて、水の中へ分け入っていく。冷たい壁
に仕切られた透明な小部屋が、どこかで待っているはず。息もできな
いほど潮の満ちたその部屋に、わたしと魚、二匹で暮らそう。二匹は
互いを手なずけて、ひっそりと眠り続ける。

 

ほんとうは知っていた。
水槽なんて、愛とは無関係に
売りつけられてしまうこと。
振り出しを求めるわたしに
ぱりりと割れる水槽はいかが
水槽はいかが

 

場所を空けたら、寄り添いますか。
背後にたたずむそのひとは
見たら別人かもしれない。
それでもいい、と振り向いてごらん。
遠い雑踏のすみかを追いかけるのは、
「ここ」を無視するためじゃない。
「延長」を探すため。
その魚はもう、あなたへと泳ぎはじめている。
立ちつくすわたしの肩先をすり抜け、
まっすぐに、ゆく。
片袖の焼けたわたしの服が
しずかに揺れる。

 

あなたが誰かのものになっていく。
触れることもせず、
祈るように見つめるわたし。
彼らの暮らす水槽は
あまりに澄んでいたから。

「片袖の魚」 文月悠光