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文月悠光 『わたしたちの猫』

   春にはいない虫

 
 
 
春にはいない虫を思うことは
あの人を包むことに似ている。
春も秋も夏も冬も
平らかに生きているわたし、
空と地面に閉じ込められている。
 
はじまることが苦手な人は
春にくじけていくものだ。
春には春の虫がいるからと
手も振らずに遠くなったが
わたしはここにとどまったよう。
首をかしげた、その傍らに
耳がすくすく生えている。
見えないところに育っている。
鼓膜が震えている場所を
風はたちまち探し当て、
わたしたちを 踊り場へ吹き寄せていく。
いつから終わりは
はじまっていたのだろう?
 
雪は青い芽をこぼして最後
土からゆっくりと身を引いていった。
足をハイソックスにくぐらせて
つぼみをやさしく踏んでいる。
わたしの見えないところで
あの人は息をする。
誰かの耳を
震わせる。

「春にはいない虫」 文月悠光