文月悠光 『わたしたちの猫』
夏の観測席
窓ぎわ 右の列の三番目 ひじかけつき
観測席はそこにある。
発車時刻を待つバスの中、
私は坂道の向こうを見すえ、待ち尽くす。
赤い指先で、スカートのすそを引っ張っている。
やがて銀色に輝く自転車を引いて
君が坂を下りてきた。
君の隣であの子、ひなげしみたいによくわらう。
ふたりのまとう空気が
窓越しにしっとりとたなびいてくる。
校庭の白線は息がくるしくなるほどまっすぐで、たどっていたら四月、君が駆けていった。砂まみれのその髪が跳ねるたび、私は根なし草のごとく揺れ動いた。だだっぴろい校庭の、この砂漠のような一帯を、青い涙で覆い尽くしていきたい。口に含めば、甘くあふれ出す君の名前。見つけてしまった。幾度も口ずさみ、断ち切ることなく味わっていた。それが合言葉のように、唱え終えると夏がきていた。
もてあますほどの甘さが
君と私のあいだにあるということ、覚えていてよ。
気がついたのは、まだ梅雨の頃。
放課後、まぎれもないこの席で
走っていない君の姿を観測したのだ。
君はぎこちなく彼女に傘をさしかけて
一歩一歩、惜しむように歩いていた。
あの子が君の頭に手をのばし、
砂を払って、凛とわらった。
窓に小さく手をひろげ、
ふたりのあたたかなベールを包み直す。
見つめるほどに、夏服の背中は白く冴えていった。
ひなげしのあの子を連れて
この夏、君はどこへ発つ?
そこに観測席はあるのでしょうか。
バスはふわりと ふたりを追い越して
私を 君のいない夏休みへ連れていく。
「夏の観測席」 文月悠光