文月悠光 『わたしたちの猫』
まぶたの傷口
たとえば六月の青い冷凍庫となって
まぶたの裂け目を絆創膏で貼り合わせる。
ぴったりとわたし自身を眠らせておく。
その傷口からあふれ出るものは
あまりに熱く、透明でした。
泳がせれば窓枠に当たる指先。
口づけを送るように触れたい。
この指がたどるものすべてに
指紋はあたたかく残されていく。
願いを言葉にできぬまま
体温にあずけていた。
まぶたの裏に森を育てて
君という木を閉じ込めている。
思いはわたしを遠く離れて生い茂るから
裸足のかかとを打って忍び寄る。
赤く腫れあがったつま先は、木の根の陰に隠そう。
手折れない君の枝が
わたしのむき出しの肌を突く。
泣かないようにと唇を噛む。
涙は痛みを鈍らせてしまう。
ふたりの時を止める、その代わりに
わたしはまぶたの傷口を閉じた。
殺してなんかいません。
わたしはそれを眠らせていただけ。
君の声はどこからするの。
ざわめく枝々に指を這わせ、じっと感じようとする。
夜、ベランダにひとり降り立てば
雨のにおいがひやりと頬を撫ぜた。
軒先から一歩出て、わたしは身体を濡らしてみる。
まぶたから絆創膏を少しずつ剝がしていく。
この傷口の見せる景色を
わたしは泳ぎ切れるだろうか。
いま 青い扉をこじ開けて
凍らせていたもの ひとつひとつを溶かし出していこうか。
まぶたを叩く雨粒は痛くて甘い。
泣いたって今ならばれない ばれはしないのだ と
脈打つ胸にこぶしを置いて
息を白くなびかせている。
「まぶたの傷口」 文月悠光